本文へスキップ

「内なる声」によるコラム

悩めるあなたにアドバイスのコーナー。さまざまなお悩みに関する、「内なる声」の見解を、こちらで少しずつお伝えしています。

※「内なる声」によるコラムは、メールマガジン
万事良好!もう「いい気分」でいることを忘れない! にて、2015年2月からお送りしている内容を掲載しております。

「内なる声」によるコラム メニュー

「あなたのハイヤーセルフ」論
「あなたの悩みについて」の論
「恋愛について」の論
「結婚について」の論
「嫉妬心について」の論
「天職について」の論
「友達について」の論
「いじめについて」の論
「転機について」の論
「愛について」の論
「病気について」の論
「評価について」の論
「エゴについて」の論
「お金儲けについて」の論
「時間の使い方について」の論
「競争について」の論
「努力について」の論
「心配事について」の論
「優劣について」の論




「あなたのハイヤーセルフ」論


私は、「ハイヤーセルフの知識に詳しい存在」として、個人サポートをおこなっている。

ハイヤーセルフというのは、あなたの深いところに存在する、「あなた自身」のことだと考えてみて欲しい。
私は、あなたがたのハイヤーセルフと繋がり、あなたのことを理解して、話をすることが可能。


ハイヤーセルフというのは「あなた自身」ということを、まずは理解してみて欲しい。

あなたの心の中には、あなたの「考えていること」に反応している者が存在するはず。

「こんなことを考えているのは、良くないことなのではないか」とか、
「本当は、こうするべきなのではないか」とか、
「私が本当にしたいのは、こういうことではないのではないか」など、

あなたの考えていることに対し、『もう一つの本当の心』とも言うべき指針があるということに、気づくはずである。


そういったことを、あなたがたは「本心」とか、「良心」とか、「魂」など、いろいろな呼び方で呼んでいる。

しかし、私には「ある一つの存在」として、あなたのハイヤーセルフの姿をとらえることができる。

「ハイヤーセルフが、あなたに何を伝えようとしているのか」を、明確にとらえることができる。
そして、あなたのハイヤーセルフが伝えたがっていることを言葉にし、あなたに効率的に話をしようとすることができる。

そういったことを提供しているのが、個人サポート・システムであると考えてみて欲しい。

あなたのハイヤーセルフという存在が、あなたをその対話に導こうとする。
そういったことを信じるかどうかはともかく、私にとっては、それが真実なのである。


あなたにしてみれば、「自分」のことについて、あれこれと言われるというのは、不思議な感覚かもしれない。

しかし、世の中には、「不思議なこと」と「不思議ではないこと」が存在しているのだという説明をするつもりは、私にはない。

あなたがたにとって、ほとんどのことが「わからないこと」であったり、「不思議なこと」であったりするにもかかわらず、まるで、多くのことをすでに把握しているかのように感じたり、科学で証明されることこそが「現実的」と定義してみせたり、本当はすべてのことが理解できているかのように勘違いをしてみたり、生きる意味も死の意味も知らない「自分」のことを省みなかったりしているに過ぎない。

あなたがそういったことを理解しようとし、新たなる視点から物事を見ようとすることによって、あなたの世界は、より良くなっていくようにできている。
そういったことをサポートするのが、私の役割であり、このシステムの目的であると考えてみて欲しい。


あなたが「自分」のことを理解し、「より良くすることについて考える」ということを、サポートする。

それが、私のおこなっていることである。


メニューに戻る


「あなたの悩みについて」の論


あなたがたにアドバイスできることは、三つある。

まずは、前提となることを話してみよう。


この世の中には、必要なことと、必要になっていないことがある。
それから、おこなうべきことと、おこなうべきではないことがある。
それから、できることと、できないことがある。

そういったことを、判断するべき。


あなたの悩みが、どういったことなのかを、考えてみて欲しい。

何を悩んでいるのか、
それから、どうして悩んでいるのか、
また、なぜそれを悩んでしまうことになったのか。

そういったことを、判断するべき。


あなたが悩んでいることを、「悩んでいる」と自覚しているのかどうかを、考えてみて欲しい。

あなたは、いろいろなことを考えるのだと思うが、しかし、本当に考えるべきはこれらのことで、「必要なこと」と「おこなうべきこと」と「できること」を判断することさえできるようになれば、解決に向かう。

そのように考えることができないのであれば、それ自体が「問題」なのだ。


「問題」と判断することがそこにあるとき、必ず、あなたなりの「答え」を出す必要が出てくる。
それから、あなたなりの悩みを感じ、あなたなりに解決法を探るということになっていく。

要するに、あなたの悩みは独自なもので、他の誰にもあてはまるものではない。
だから、参考になる意見はあったとしても、あなたが判断を重ねていくしかなくなってくる。

そういったときに、このアドバイスは役に立つと思うので、覚えておいて欲しい。


必要なことを判断し、おこなうべきことをおこない、できることを始めること。
それから、あなたの判断を重ねていくのだと知ること。
それから、あなたが「問題」としていること自体を見直そうとすること。

本当は、この三つのことさえわかっているなら、進んでいくことができる。

だが、人は「これまでの経験」をもとに物事を考えようとするため、「これまでにない経験」を重ねていくにつれ、判断をすることが非常に難しくなってくる。
そういったことを鑑みて、あなたのヒントとなる知識を得ていくということもまた大切。


世の中はそんなふうにできているので、それに逆らって「問題」を消そうとしたり、都合のいいようにおさめようとしたり、自分勝手な振る舞いを続けようとしたりするときには、ますますわけのわからないことになっていく。

そういうことが重なると、元の判断に戻るのがだんだんと難しくなってくるし、「問題がなくなってくれるのが正解」という主張をしようとしたり、「自分のせいではない」という勘違いをしようとしたり、「何もかも放り投げてしまおう」という考えを続けるようになって、手がつけられなくなってくる。

あなたがそのようにならないためにも、三つのアドバイスに従って、よく考えてみて欲しい。


「問題」とは、常にあなた独自のものであり、他の誰にも解決することはできない。

そして、あなたの真なる「問題」とは、「正しい判断をすることが、できていない」ということなのだ。


それさえ理解することができれば、進むことは可能になる。

さあ、正しい判断をして、進んでいくことにしよう。


メニューに戻る


「恋愛について」の論


恋愛をする者は、冷静さを失う。

「恋愛をする」ということは、冷静さと情熱の狭間で、悩むことになる。


「恋愛をする」ということは、「相手を優先する」ということになるため、自分自身の苦しみや矛盾を感じる。

そもそも相手を思いどおりにすることは叶わず、そもそも自分だけが楽しんでいてはうまくいかず、そもそも相手のあることなので悩みが増えるということを前提に、人は恋愛をする。

悩みたくない者は、恋愛などしなければいい。
そういうふうに言うことさえできる。


だが、なぜ人は恋愛をするのかというと、自分自身の心の変化を経験したいため。
また、相手をよろこばせる力、そして、心の高揚を互いに楽しもうとする気持ちが強くなるため。

また、相手が振り向いてくれないということさえ、あなたにとってのよい経験となる。
そういったことを学びながら、相手と自分との相性を知り、他の人を愛することや、互いの愛を確かめ合うことを知る。

人生のうちに、そのように恋愛をするのかどうかということを、決めるのはあなたである。
恋愛をする相手の数も、恋愛をする人生を歩むか否かの選択も、元から決まっているものではない。

だが、人生には必ず「現れる人」がいる。
そして、その人との出会いに苦しむシーンというものがある。

それは、あなたが乗り越えるべき人間関係の仕組みであり、恋愛という観点からは少しずれている。

恋愛を発展させるか否かを悩む者は、あなたの自由だと考えてみて欲しい。
人間関係と、恋愛というものを考えるのは、別のこと。

なぜなら、恋愛は「冷静に判断できぬ」ということを前提に考えるものだからである。


すべての者は、恋愛に苦しむ。

それは、恋愛がそもそも「自分以外の者のことを考える」という、「自分以外の者のための行為」であるため。

そうであるにも関わらず、他の悩みと同じく「自分のことを考えればいい」というような理屈が成り立たないから。
そもそも、普通に考え、自分の動揺を隠せぬ行為に踏み切るか否かの選択をしなければならない。

それでも、「恋愛をする」と決めたからには、あなたがその矛盾を受け入れ、「それでも恋愛をしようとするのかどうか」というところを考えるべき。
あなたが判断をするべきところは、常にそこであって、その他のことではない。


あなたの手に負えない事態になりつつ、「恋愛を終わらせることができない」と考えている者は、よく聞いてみて欲しい。

終わらせるのは、簡単である。
あなたは、「続けるかどうか」を選択すること。

それは、常に「あなたが苦しんで当然」という理解のもと、「それでも続けたいかどうか」ということを問いながら、あなたが選択することである。

恋愛を続けるときには、それが「苦しいかどうか」で判断するのではなく、「苦しいのを当然とし、それでも続ける価値があると思うかどうか」という判断をすること。

あなたの価値観を信じること。
それが、アドバイスである。


メニューに戻る


「結婚について」の論


結婚は、愛とは関係ない。
なぜなら、愛というのは、あなたが自分で感じるものなので。

結婚とは、これまで何かにつけて流動的であったものを、固定化していく行為である。

「結婚をする」ということがどういうことかというと、日本で言えば、いろいろ法律に関わってくる。
それだけである。

結婚をするのだから「これをしてはいけない」もしくは「するべき」という選択を、余儀なくされる。

男性の場合、結婚をするにあたって、考えるべきは二つある。

一つは、自分が生計を立てるにあたって、一人の人間を死ぬまで食わせる覚悟を必要にしているのだということ。

あるいは、人数の増えていく話になっていく。
それができない者は、途中で挫折せざるを得ない。

それから二つ目は、自分の好きな人と一緒になろうとすること。

すごく好きな人と一緒になろうとすることによって、いつか、自分が好きな人と結婚をしたことを、誇れるようになる。

自分の好きな人であれば、たとえそれが途中にうまくいかなくなったとしても、後悔をするのではなく、前向きに考えようとする。
実際、好きではなくなる例も多いけれど、それは仕方ないように考えを変えることができる。

自分の好きな人を選ぶという基準を忘れると、「何のためにこんなことをしてるのか」と思うことが増えるので、そういう話をしている。

結婚というのは、「何のためにこんなことをするのか?」と思うようなことが増える。
なぜなら、あなたが働いたお金をもっていかれるし、実際にしてはいけないことも増えるし、言葉で語りつくせない苦労もあるものだし、答えは死ぬまで出ないからである。

要するに、そういったことを考えるのは男性のほうであり、女性はのほほんとして、愛や「恋愛の延長」の話をしようとする。

それは、「男性に任せる」ということが発生するため。
日本の法律をもって、そういったことを考えるべきが、男性にあるため。
要するに男性は、結婚ということについて言うならば、「責任を増やしていく」というものでしかなくなる。

そこに何か希望をもつとすれば、とても愛する者のためにそうしなさいということ。
それが、大切である。


女性の場合、とにかく恋愛の対象を見る目をもって結婚を考えるから、後で文句が出てくる。

女性は結婚をすることによって、経済的安定と子供の面倒をみること、それから良く言えば「花嫁としての仕事」ができるため、働くということを一部免除される。

ところが、これが思っているより大変だという認識がなければ、人のことばかり責めるような考えをもって、自分の境遇を憐れむようにもなり得る。
なぜなら、「結婚しても、夫が助けてくれない」と思うからである。

良く言えば「対等に仕事をする状態」になるため、あなたの夫は、あまりあなたのことを助けてくれない。
そういったことに悩むことも多い。
それに、働く女性が増えるため、稼ぐのは夫ばかりではないという話にもなる。

それでは、何の利点があるかと言うと、つまり「あなたが生きていく上での利点」ということではなく、「それでも結婚をしたいかどうか」という問題。
あなたは、世間体や子供のこと・経済的安定・夫の収入などをあてにして結婚をすることによって、不満が発生するかもしれないが、それを選ぶのかどうかという話。

なぜなら、現在の日本の法律をもって、「結婚をする」ということが大きなことであるため。
その法律にあやかって、何かをするのかどうかの問題について話さねばならないのに、そこに愛情の問題を持ち込んでヒステリーを起こしても、うまくいかない。

あなたが思っているより楽ではない結婚生活があるのだとして、そうするのかどうかというのは、もとより重要な話。
そういったことを間違えず、「二人でその苦労を背負う」とするのであれば、結婚生活には楽しみも多いので、うまくいく要素が増える。

だが、どちらかの性質によって、どちらかが苦労するものだと決めつけている状態にあっては、うまくいかない。


二人で話し合うべきは、新居の楽しみについてのことではなく、こういった苦労の分かち合いのことであると知るべき。

そういったことを理解し合える夫婦であれば、結婚の利点を活用できると思う。


メニューに戻る


「嫉妬心について」の論


「嫉妬心」には、向き合わなくていい。

「嫉妬心」を、どうにかする必要はない。

「嫉妬心」は、自分が人に比べてどうだということによって、生まれているものではない。
「嫉妬心」を感じるのは、自分が本当に経験したいことを、人がおこなっているからである。


そもそも、あなたが「こうであればいいな」と思っていたことは、すでに人が経験していることだと思う。

うらやましいと思ったり、ねたんでしまったり、そのほうがいいなと思ったりすることは、すべて「自分が、人のおこなっていることを見て感じていること」である。

人に対する「嫉妬心」が爆発的に出てくる瞬間というのは、「自分がそうしたかったのに」と思うときである。

それが叶わないから困っているのではなく、「自分が何を願っていたのか」を痛烈に知るときであると思ったほうがいい。


それをヒントに、あなたはもっと、あなたのためになることを始めるのがいいと思う。

たとえその「嫉妬心」をなんとかすることができなくとも、同じようなことに対して、もっとその願いに近づくことは、必ずできる。

あなたにもできるからこそ、生まれているのが「嫉妬心」だと思って欲しい。

そうでなければ、「あきらめ」とか、「疎外感」とか、あなたの「絶望感」を感じるのが普通である。


「嫉妬心」というのは、強烈にあなたの心に残る。

それは、「あなたが、これから頑張る」という要素になるもの。

何に対して頑張ることにより、あなたがその願いに近づくのかを、考えてみて欲しい。


例えば、自分の好きな人が、自分ではない人を好きな場合などには「嫉妬心」が生まれるけれども、それは「好きな人が自分を見ていないから」ではなく、「きちんと自分を見てくれることをうらやましがっているから」だと思う。

つまり、そういった場合には、好きな彼女や彼に「嫉妬心」を抱くのではなく、彼女や彼に関わった人に対して「嫉妬心」を抱くはず。

それは、自分がきちんと愛される人間になりたいから。
それ以外の何ものでもない。

にもかかわらず、自分には何かが足りないとか、コンプレックスがあるとか、そういうことが原因だと思ったりしていることがある。
だが、本当は、自分の愛する「自分」になって、愛して欲しいだけなのである。


自分には「嫉妬心」がないと思う場合、それはそれでかまわない。
だが、その場合はいまの自分に満足しているわけではなく、「嫉妬心」というものを避けている可能性をもっている。

「嫉妬心」というものは、広い世界に出れば、必ず感じるものである。
だから、「嫉妬心」を感じたくないなどと、思わないほうがいい。

どんどん「嫉妬心」を感じ、自分がなりたいもののイメージを強め、それに向かって邁進することを考えるのがいい。

「嫉妬をする」ということは、「こうなりたいというヒントを得ている」ということ。
それほどわかりやすいヒントを得ているにもかかわらず、何もしないということを選ぶ者は、おそらくその「嫉妬心」に押しつぶされそうな自分を感じ、何かをせずにはいられなくなってくる。

その際、正しく努力できる者が、必ず良い方向に向かう。
それを忘れないで欲しい。


どうしても叶えたい夢を、叶えたいと思うのであれば、その「嫉妬心」をバネにするのが一番いい。

あなたの挫折や「嫉妬心」をバネにして、何をするのかを考えることによって、あなたが今度は「嫉妬心」を感じさせる側に、移行する日がやってくる。


そのときにはじめて、あなたがあのとき「嫉妬心」を感じた人も、こうして頑張ったのだということに、気づくことができるだろう。


メニューに戻る


「天職について」の論


「天職を求める」と言う者は、夢を見ている。


「天職」というのは、仕事をする上において、「自分に合っている」と思える状態に過ぎない。

その状態を夢のように求め、運命のように出会いたいと語る者は、要するに、仕事をしたくないのだろう。


仕事を選ぼうとするときに、「何をするべきか」とか「自分に合っているのかどうか」と悩む者がいるが、そんなことを考えようとも、わかるはずがない。

誰かが何かを始めるときには、「よくわかっていないことを始める」ということでしかない。

なのにはじめから、好きだとか嫌いだとか、向いているとか向いていないとか、これが一生の仕事だとか、これは違うようだとか、わかりようがない。


ただ、どんなときにもわかっていることが、一つある。

仕事をしなければならない理由があるということ。
あなたが仕事をする理由は、それである。


一つ聞きたいのだが、あなたがやりたい仕事というのは、お金をもらわなくてもしたいものだろうか?

それを考えると、次のことがわかる。

仕事は、お金をもらわないと、する気が起こらないものである。


「仕事=楽しいこと」になってもいいではないかと思う者には、「お金をもらっているのに、楽しいということを求めるのはなぜなのか?」と、聞いてみたい。

あなたが仕事をするのは、そこにその仕事を必要にしている者がいるとき。
そうでなければ、成り立たない。

あなたはその対象の者を楽しませ、役に立つと言われ、よろこばれて、はじめてお金をもらう。

あなたがそれをせずに楽しみたいのだと言ったら、その対象の者はこう言うだろう。
「では、あなたが金を払え」と。


生活をしている中、誰かの世話をし、誰かのために働こうとし、誰かがよろこんでくれることを楽しもうとしているのであれば、それは叶う。

だが、あなたが趣味のように仕事によろこびを求め、あなたのやりたいようにすればいいと思っているのであれば、それは、あなたの勘違いである。

どこかの誰かが「楽しみながら仕事をしている」と言うことを聞いて、鵜呑みにするのはやめたほうがいい。

「楽しんで仕事をしている」と言う者は、誰かの役に立っているから、楽しいと思うのである。


仕事というのは、誰かの役に立ち、需要と供給が成立したときに面白くなる。
にもかかわらず、「需要のことはわからないが好きなことをする」という考えをもっているのであれば、そこにお金はついてこない。

遊ぶように仕事をしてお金を儲けたというのは、まあ、万が一にあったとして、よろこびにはなるまい。

あなたは、マネーゲームを楽しみたいのか、仕事を楽しみたいのか?
現在のあなたにできることが少ないから、楽しくないのではないか?

少ないのだとすれば、増やせば増やすほどその需要は増えるのではないか?
あなたが最も欲しいものを、提供しようとは思わないのか?

そういったことを、きちんと理解できているのかどうかということを、考えてみるべき。


実際、仕事を楽しんでいる者とは、「ある一つの天職に巡り合った者」ではない。

何もわからないところからスタートし、たまたま巡り合った仕事を経て、自分のできることを増やし、必ず人の役に立つことを始めた者。
そう考えてみて欲しい。

自分にできることは、限られている。
だから、できることを、増やしていかねばならない。

要するに、自分の得意とするものを増やし、それを提供することによって、よろこんでもらえる機会が増えるということが、仕事の楽しみになるのである。


仕事が面白くなるのは、仕事の幅を広げたとき。

それから、あなたができることを増やし、それが人の役に立ったとき。
それから、あなたがやろうとしたことが、誰かに伝わったとき。
それから、あなたがやりたいと思うことが、展開できるようになったとき。


そういうことをできるようになることが、あなたの望みではないだろうか。

違うのだとすれば、あなたは、「天職」という幻を求めて、さまようのだろう。


メニューに戻る


「友達について」の論


あなたは、「友達が欲しい」と言う者を見て、どう思う?

「友達をつくる意味」とは、何だと思うだろう?


「友達ができない」と言って悩んでいる者は、友達を、必要不可欠な人物設定のように考えている。

友達というのは、「一生の友達」のことを考える者が多い。
それは、どうしてだと思う?

「友達ができた」というのは、一時的なことかもしれないし、一生のことかもしれない。
なのに、延々と一緒にいてくれる友達が、延々と味方してくれるものとして、考えるのがいいと思うだろうか?


友達の何たるかを知る前に、「ああ、友達が欲しい」と言うときには、ただの便利なペットやロボットが欲しいと言っているような状態に過ぎない。

友達というのは、「いたら便利な者」ではない。
お互いに自分のことをおこないながら、「他のことを知る」ということのできる関係に過ぎない。

うまく友達をつくれない者や、友達が気に入らないことをすると言って怒っている者は、必要以上に友達関係というものを意味のあるものにして、もがいている状態に過ぎない。


「友達が欲しい」と思う者は、よく聞いて欲しい。

友達は、あなたの所有物ではない。

あなたが、好きなときに便利に呼び出せる者でもない。
あなたが悩んでいるときに便利に動いてくれる者でも、悲しいときにそばにいてくれるペットのような存在でもない。

何でも話すことのできる、おしゃべりロボットではない。
あなたと同じ時間を過ごすことのできる、あなたと同じ人間。


あなたは、その者を尊重しなければならない。

その者をよろこびに導き、お互いに高めあう努力をしなければならない。
つまり、あなたとはまったく考えの違う性質をもつその者のことを、認めるということをしなければならない。

遠く離れるにしても、近くにいるにしても、お互いがまた会おうという気持ちになるようなつき合いをしなければならない。
そういったことを理解しながら、あなたはあなたのことを、そして友達は友達自身のことを考えて生きるに過ぎない。


友達関係というのは、「対等」を意味するものであり、「依存する者」でも、「頼りにする者」でもない。

「対等」と言える状態にない者は、友達を失っていくことになる。
自分が、相手を対等とみなし、相手を同じ人間として尊重するのかどうかというところを、考えてみて欲しい。

そのように理解している者は、「友達が欲しい」などとは、言わない。

「友達になれる人が、一人でも増えるとうれしい」と言うのならわかるが、まるで、おもちゃを欲しがるかのように「友達が欲しい」と言うということは、むしろ「友達になる気がない」と言っているようなもの。

そういう勘違いをしている者には友達ができないため、「友達が欲しい」と言って嘆いているばかりとなる。


友達というのは、誰かがあなたのことを「友達だ」と言ったなら、友達なのだと思わないだろうか?

だとすれば、そんなに難しく考えなくても、友達はつくれると思わないだろうか?

友達というものは、離れようがくっつこうが、それはそれで、かまわないものではないだろうか。

おそらく、一生を共にする者などいない。
そう言えると思う。
友達というのは、次々と移り変わる人間関係の中、「あの人とまた会いたい」と言えるような仲にあるのではないだろうか。

友達にもいろいろな事情があり、あなたにもいろいろな事情がある。
そういったことを気にせずにつき合えるのが、友達。
あなたが、そう言われたら、うれしいと思わないだろうか?


私は、友達については、こう思う。

友達というのは、あなたが思うよりも、簡単にできる。
それに、簡単に離れ離れになる。
だけど、それでいいのだと。

友達が幸せならば、それでいい。
そう思える者には、友達が増える。
それから、お互いが、お互いを求めるために必要なのは、「あなた自身の成長を考えること」である。


友達は、友達自身のことを考えるようにしてあげようとすること。
なかなか会えない友達であっても、あなたが友達だと思うのであれば、友達は友達。

あなたが、「友達ではない」と言われたのだとしたら、友達ではないのかもしれないけれど、あなたが友達だと思っている人には「そう思っている」と伝えればいいだけのこと。
それだけのことを、難しく考えないこと。

あなたは、どんなときにも友達を増やすことができるし、それに友達は、友達の事情をもっている。


そのように、お互いのことを考えられるように、ある程度の距離をもって接するのが、本当はうまくいく。

参考にして欲しいと思う。


メニューに戻る



「いじめについて」の論


いじめというのは、どこで起こっているのだろう?

学校だろうか?

それ以外の場所では、起こっていないのだろうか。

子供のいじめと、大人のいじめでは、どちらが大変なのだろう?


例えば、子供が自殺をすると、大人が気づいてやらなければいけなかったと言い、大人が自殺をする理由は、本人にゆだねられていると言うのだろうか?

では、いったい誰が、いじめられたときの対処法を教えるのだろう。

あなたは、いじめられたときの対処法を、知っているだろうか?


いじめというのは、社会的に問題になっていることと、なっていないことがあると思う。

いじめられたときの対処法を身につけることは、難しい。
なぜなら、皆それぞれに、いじめたりいじめられたりする理由をもっているからである。

人が人をいじめるというのは、それこそ日常茶飯事におこなわれても、おかしくない。
例えば、その者が気に入らないとか、からかってやろうとか、嫌味を言ってみようとか、普通はそのように始まる。

そこからどのようにエスカレートするか、ということが問題になってくるのであって、そういったことがなくなるということはないと思う。


では、どういったときに、それが問題に発展するのかというと、自分が苦痛に思っているときに、行動に変える力というものをもっていないときである。

苦痛に思っているときに、耐えるべきと考えたり、苦痛に慣れようとしたり、苦痛である自分のほうが悪いとか、苦痛であるのが当然と考えていたりする者が、「いじめられる側」になる。

反対に、自分が苦痛に思っているのはおかしいとか、苦痛であるのは自分のせいではないとか、何か他に原因があるとか、誰かのせいにしてやろうとか、発散させようとか、こうしたら楽になるかもしれないと考えたりする者が「いじめる側」になる。

要するに、「苦痛である」ということを真摯に受けとめ、それを自分の危険信号として、早くに正しい考えを身につけようとしない者が、こうした問題のある考え方をすることによって、いじめというものが起こるのである。


そういう意味において、「いじめる側」か「いじめられる側」の、どちらが正しいのかということは、あまり追及する必要がない。

どちらもマイナスの感情をもって、マイナスの方向に向かって行く。
「いじめる側」は「いじめられる側」に比べ、精神の安定があると判断するのは、間違いである。

大きく歪んだ考えに振り回されている者は、もれなく精神が不安定になり、どんな加害者も、被害者のごとく打ちのめされている。


だから、もしあなたがいじめられるようなことがあれば、「相手は、のうのうと私をいじめてよろこんでいる」などと、勘違いしないほうがいい。
それに、あなたが一人で、簡単に解決するべきなどと思わないほうがいい。

よく聞いて欲しいのだけど、歪んだ考えを、歪んだ考えのままにぶつけ合ったところで、何も解決することはない。

「いじめる側」と「いじめられる側」が和解をして終了するということは、目指さないほうがいいのである。


あなたがもしも、第三者としてそういった場面に遭遇したときには、このように考えてみて欲しい。

とにかくそういった問題が起こり得るときには、できる限り双方を引き離すことを前提に考えること。

そしてそれぞれの問題を、それぞれに返して考えさせることが大切。


また、それが難しいときには、あなたが「いじめる側」をなんとかしようとするのではなく、「いじめられる側」を、「いじめる側」から引き離す方法を考えること。

そうすることなく、何かを丸くおさめようなどと、考えてはいけない。

なぜなら、「自分は間違っていない」という考えのもとにすべての者が動いているからこそ、そのような問題が起こっているにもかかわらず、あなたがそれに加わって参戦することには、愚かさを感じるべきであるため。


いじめというのは、ある間違った考えにおいて引き起こされ、間違った考えによって立場が分かれることになってしまう問題に過ぎない。

「いじめる側」も「いじめられる側」も、マイナスに傾いていく思考を止められなくなっていく、被害者に過ぎない。
そもそも自分の思考の偏りにおいていじめが起こるのだということを理解していなければ、すべて者が、平等に起こす可能性のある問題なのである。


だから、いじめがなくなる社会を目指すのではなく、「では、正しく考えよう」と思う環境をつくっていくことを目指すか否かの決断となる。

いじめを受けている者は、最もプラスの方向に物事を考えてくれそうな人に相談するか、そこから逃げ出すことを考えること。

大切なのは、「自分が苦痛を感じていることを知っている」ということであり、そこからいますぐには逃げ出せないにしても、「普通の状態ではない」として考える必要をもっている。

いじめている側は、すでに自分の考えを嫌っている者がほとんどであるため、説得しようとはしないほうがいい。


その場所にいることが苦痛であることを知っている者は、苦痛でなくなるための策を練ろうとするべき。

そうすることがプラスに傾くことであって、その経験が役に立つときが、必ずくる。

それを、忘れないで欲しいと思う。


メニューに戻る


「転機について」の論


転機というのは、じっと待っていても起こらない。

「私は、こういうふうにしてみるぞ」と決意し、自分から何かを起こそうとしたときに起こる。

転機とは、自分の好きにしているときに、起こるのである。


偶然に何かがあったときに、「よし、行動するぞ」と思えたら、それが転機になる。
いろいろなことが起こっているにもかかわらず、虚しいことばかり考えているならば、転機にはならない。

転機というのは、普通にある物事の中、「よし、これをどうにかするぞ」と思った者に起こる。

単に何かが起こって、「それが転機になった」ということにはならない。
あなたが、何かを起こすぞと思わなければ、それは転機にならないのである。


一つ例を挙げよう。

あなたが、仕事をしていて、失敗をしたとする。
そういうときに、自分はとても後悔したり、反省をしたりすると思う。

そして、「今度はこうしてみよう」とすることを思いつき、実際にやってみたとする。

それが、転機になる。


もう一つ例を挙げる。

あなたが、恋人にふられたとする。
あなたは打ちひしがれ、死んでしまいたいと嘆くようになる。

そんなときに、「もう何もかも嫌になったけれども、これをおこなってから死ぬのも悪くない」と思い、何かを始めようとする。

それが、転機になる。


転機とは、後になって「ああそういえば、あれが転機だった」と思えるような、わかりやすい時期のことを言う。

あなたが何かをおこない、それがうまくいくなり、ちょっと軌道に乗るなりすることを、転機と呼ぶのである。

だが、誰かと出会っただけでは転機にはならず、何かが終わってしまっただけでは転機にはならず、切羽詰まっただけでは転機にはならない。

何かをしようとしない限り、あなたには、転じる機会は訪れない。


転機を迎えたいというふうに思うのならば、「自分は、発想を貧困にしている事実がある」ということを、認めなければならない。

人は、自分にふさわしいやり方をおこなっているつもりで、普段から慣れ合いになっている行動を、ただ続けている傾向にある。
その状態において、うまくいっていないことを改善しようとする気持ちを、あまりもっていない。

なぜなら、危険の伴う方法は回避したいし、本当にうまくいくのかどうかわからない状態において、行動するのが怖いからである。


だが、実際にうまくいかない状態が続くとき、「どうせうまくいっていないのだから、やってみよう」とする心が働く。

それが転機となる出来事であって、普段からそういうことを次々にやろうとしている者は、それを転機とは呼ばない。
普通に「好機」だと思うだけである。

それを「転機」と呼ぶのは、普段から、うまくいかないことを続けている者なのだ。


だから、あなたが転機に訪れて欲しいと思うのなら、どうしてもうまくいっていないことや困っていることについては、考え続けるのをやめて、思い切って何かを別の発想でおこなってみること。

それは、あなたが考えつく最良の案というよりも、「どうせダメなのだから、やろうと思ったことをやってみよう」といった、安易な考えでおこなうのがいいと思う。


そうして、あなたが「やってみよう」と思ったことが、功を奏すということが必ずある。

それを人は、あなたの転機と呼ぶだろう。


メニューに戻る


「愛について」の論


あなたがたが見ているものは、すべてが「愛」である。

「愛」の性質のものしか、そこにないと思ってみたほうがいい。


あなたがたは、「そうは思えない」と思いながら、その「愛」を見ている。

私は、あなたがたにこう言いたい。


あなたがたは、実際に見ているものを、本当の姿だと勘違いしている。


例えば、憎むべき者が現れたとき、それを「愛」とは思えない。

だがそういったときに、あなたの心に芽生えるのは、「愛がない」という気持ちであろう。

愛情がない状態において、なぜ「愛」のことを考えるのか、どうしてそこには憎しみのことばかりではなく、「愛」という飢えたものの考え方が入るのかを、考えてごらんなさい。

「愛がない」ということを考えるために、その「愛」がやってきたとは思わないのだろうか。


自分の心に、いかに「愛」がないのかを思い知るべきことは、次々と起こる。

「愛が欲しい」と思うようなことが起こるとき、あなたには、「愛」という形のものを欲しがる心が生まれる。

そういった心をもって、あなたが「愛」に満たされようとするときこそ、多くのことが、理解することのできるものとなるのである。


例えば、多くの者が困っているとする。

実際に、多くの者が困っていることがあるとして、あなたがおこなうべきが何かを考えるとき、必ず「愛」をもった考えが必要になる。

あなただけが多くの者のために何かをするのか・あなただけが多くの者を制するために行動を起こすべきか否か・あなただけが多くの者と対立するようなことをおこなうべきか否か・あなただけが多くの者を救うために動き出すべきか否かというような、考えをもつと思う。

それぞれの考えはさまざまなもので、あなた一人では手に負えないことも、たくさんあるだろう。


だが、必要なのは「愛」である。

あなたがたの考えには、「愛」が足りない。

だから、そういった難しい問題が起こったときには、すべてを投げ出すしか方法がなくなる。

しかし、一人が「愛」をもって立ち上がろうとすれば、「愛」をもって立ち上がる者は増える。

「愛」をもって立ち上がろうともせずに、いろいろな文句を言おうとする者は、そこに「愛」がないということに気づいていないのである。


すべてのことが「愛」だと、仮定してごらんなさい。

あなたを困らせる人・あなたを悩ませる出来事・あなたを腹立たせる根本的な問題・このことさえなければいいと思える状態。
それらのことは、すべて「愛」の化身である。

それに気づかず、あなたが憎めば憎むほど、あなたは「愛」の化身に化かされることになる。


なぜなら、それが「愛」だからだ。

あなたが、その愛を負かそうとするのなら、その愛を超える「愛」をもたねばならない。

その愛に勝る「愛」をもって、その愛を制することが必要になる。
あなたが、それに勝る「愛」をもつこともせず、どうしてその愛に勝ることができるのかと、一度考えてみるべき。


「愛」はあなたを包み込み、あなたに理解を与えようとしている。

それを受けとろうとし、さらなる「愛」をもってその愛を静かにおさめようとすることこそ、あなたのしたいことであろう。

ならば、現在の考えを改め、憎しみや憤りを感じる心を否定するほうがいい。

これは「愛」なのだと。
きっと、何かを教えようとする「愛」が、私を包もうとしているのだと。

それは、「愛」をもって制するべきものだと、考えを変えるほうがいい。


さて、その心をもって何ができるのかと考えることがあなたの役割であって、憤りを感じることに対して、イライラしている時間は無駄である。

何らかのことに辟易するときには、このことを思い出してみて欲しい。

あなたが、「愛が足りない」と感じている状態にあるときには、あなたの心に「愛」がない。

それにさえ気づくことができれば、どのように「愛」をもってこの愛を制するのかという話になるため、わかりやすい。


あなたが「愛」をもって物事を考えようとすれば、必ず話は進んでいく。

あなたが「自分に対する愛」と、「他人に対する愛」をもって、物事を考えるようにすればいいだけのこと。

それだけのことを、難しく考えないようにして欲しい。


メニューに戻る


「病気について」の論


病気というのは、一人一人に、いろいろなことを教えるためにある。

だから、決してわけのわからない状態になるということは、起こらない。
あなたが病気になったときには、それを理解して欲しい。

一概に、こうであるということを話すのは難しいが、一つ言えるのは、「治らない病気というのは、治すためにあるのではないのだ」ということ。


「改善をする」ということや、「治らないとしてどうするのか」ということは、人が死ぬまでに必ず考えるべきこととなる。
だから、病気に抵抗することばかり考えるのは、かえっておかしなことになると言わざるを得ない。

大切なのは、生きて死ぬまでの間に、病気になって改善を考え、そうやって苦しんで、「大切なことは何か」と考えること。

それが、当然だということである。


病気をすると、動けるのがありがたいと、わかるだろう。

よっぽど動いてなかったことを、知るだろう。

病気をするということは、必要なことをおこなっていない。
それは、わかるだろうか?


例えば、きちんといろいろなことをおこなおうとしている人は、病気になりにくい。

貪欲に健康を求めている人ではなく、人生の楽しみを味わおうとか、普通にあるべき姿を求めようとか、自然に生きるための努力をしようとか、そうして動こうとしている人は、病気にならない。
それは、わかるだろうか?

つまり、動こうとしていない・間違った考えをしている・偏った生き方をしている・「できないこと」を増やそうとしている・「できないことがあたりまえ」であろうとしている・それが「自分」であろうとしている人こそが、病気になる。

そう思わないだろうか?


間違った考えを正すということをしないと、どんどん酷くなってくる。

しまいには、自分が病気であることを認めなくなったり、早く死んでしまいたいと思うようになる。

そうではないだろうか?


病気を克服しようとか、病気と闘おうとする前に、それが自分の生んでいるものだと知らねばならない。

病気を毛嫌いする前に、あなたが呼んだのだと知らねばならない。

「病気を呼ぶ」というのはどういうことかというと、病気になってもおかしくない生活をしているということ。
病気を生んでも不自然ではない、偏った人生を歩んでいるということ。

そうではないにもかかわらず、自分のまったくあずかり知らないところにおいて、まったく関係のない病気が降ってかかるというのは、まずあり得ない。


関わってくるのは、遺伝と抵抗力と言えることはあるが、その発症する原因とは、自分の生き方だと思って欲しい。

自分が、そのように病気を招いても不思議ではない生き方をしている段階においてそれは発症し、成長と共に消えていくことのほうが多い。

または、さして病気のことを気にしなくなったり、「病気があっても生きていける」という状態になることのほうが多い。

つまり、一人一人に発症する病気というのは、意味がある。

「なぜ自分がそれを呼んだのか」ということを、知ることになるからである。


普通に考えれば、呼んだものは追い出せると思うのかもしれないが、あなたがコントロールするのは、病気ではなくなる。

病気というものは、それが原因となっていろいろな症状が起こる「病原体」のことを指す。
だから、それが自分自身の身体にあるということを自覚はできても、自然消滅するものにはならないということを話している。

自分の身体に発症するということを起こしながら、自分の中から追い出すということができない。
まさに、「自己矛盾の病原体」のことを言うのである。

これを変化させるために必要なのは、病原体を殺す薬ではなく、自己の変革ということになる。
それらを創り出している自己を変革しない限り、薬では追いつかないことが起こってくるというわけである。


もちろん、それがすべての理論ではないし、あなたがそれを理解するのは、もっと後になるかもしれないが、簡単に言うと、「気づくべきこと」がそこにはある。

あなたが思っているよりも、多くのことに気づくべきなのだということ。
そうでなければ、それを知らせるための病原体は、発症しない。

まさに、自分という器を表すかのように、さまざまな病気が、あなたに知らせるということは起こる。

だが、一つ言えるのは、「病気になる」ということは、「悪」ではないのだということ。


それは、敵ではない。

あなたに、それを知らせようとする「愛」なのである。


あなたは、そのようにはとらえることができないかもしれない。

だが、病気というのは、「自己の一部」として、つきまとう。

それが「愛」であるということを知らなければ、「自己そのものを、良くしよう」とする考えは、生まれない。

「自分」のことを良くしようと考え、常に人生の在り方を見つめ直そうとする、その原因が病気であるならば、それは「愛」ではなくて何であろう?


つまり、たとえそれで命を落とそうとも、敵であったというふうにとらえるのは、よくないということ。

人は、病気で命を落とすものではあるが、そこにはさまざまな愛がある。

病気は誰にでもつきまとうものだという認識をもち、自分が死ぬまでの間に、いかに生きるのかを考えるきっかけが、「病気」という名の愛であることが多い。

それが、本当のことだということを忘れないで欲しい。


不老不死の人間がいないということは、「誰もが病気にかかる」ということを示している。

だから、なるべく病気にかからないようにするのではなく、かかっても「後悔のしない生き方をしてきた」と、言えるようになりなさい。


あなたが、それを目指すことをすすめている。


メニューに戻る


「評価について」の論


評価というのは、ほんの少しのことで変わる。

それは、相手が情報を得るかどうかのことであったり、あなたが少し何かを工夫すれば良くなったりすることに過ぎない。


評価というのは、相手が見えていないものを、見せることによって変わる。

例えばあなたが、ダメだと思っていた人を「ダメではないようだな」と思う瞬間が、どこかにあると思う。


反対に、あなたがダメだと思われていた人から、評価を受けることもあると思う。

それは、あなたが何かをしたというよりも、相手が何らかの情報を受けとって、見る目を変えたのである。

そもそも、あなたは同じ能力をもっているにもかかわらず、そうした評価が変わることがあるのだということ。


だとしたら、相手が持っている情報を見極め、変化を加えさせるということで、評価を上げることが可能になる。

自分のことを評価して欲しいと思う相手がいるのなら、「こんなこともできます」「あんなこともできます」といった情報を渡すのではなく、あなたが相手の持っている情報を見極め、それ以外に知っていて欲しい情報を渡そうとすること。

あなたの「こんなことができる」という情報は、相手にとって重要ではないかもしれない。
だから、相手が重要だと思うところに引っかかるような情報を渡せば、相手の見る目は変わる。

そのためには、相手のことを知らなければならない。

あなたが、評価して欲しい相手のことを知るべきであって、あなたのことを知ってもらうべきなのではないのだ。


上司に媚びを売ったり、下手に出ることによってかわいがってもらおうとする人を見て、嫌な顔をする人がいる。

だが、下手に出ようとする人はその努力をしているのだから、かわいがられるというのは不思議なことではない。

そういったことをしようとする人は、その論理をわかっていて、相手が何を望んでいるのかということを知っているからこそ、そのようにしているのだ。

「そんな媚びを売ってまで評価を得たくない」と思う人にとっては、ばかばかしいことかもしれないが、相手がそれを望んでいる場合には、媚びを売ることも正しい対処法である。


下手に出られることを望んでいない立派な人があなたの上司である場合には、その人が何を望んでいるのかということを、きちんと知らねばならない。

要するに、相手が何を望んでいるかということを知り、あなたが何を渡せるのかという問題になるのであって、その組み合わせが合わないようなこともたくさんあるのだということ。


不特定多数の人から評価されたいと考える場合には、これと同じく、あなたが相手にする人間の多くはどんなことを求めているのかという考え方になる。

それは「あなたを含めて」の話になるため、「あなたがどんなことを自分に求めるのか」という考えをもって、話を進めれば問題はない。

ただ、その場合は評価してくれない人間も、もちろんいる。
だが、あなたが評価して欲しい人間に評価してもらえないわけではないのなら、あまり気にしないほうがいいと思う。


あなたが評価して欲しい人間というのは、つまり、「あなたを含んだ、あなたと同じ感性をもつ人々」だと考えてみて欲しい。

あなたが人とは違う感性をもっているのかもしれないと、気にする必要などない。
あなたがいいと思っていることは、必ず他人も評価してくれる。

ただ、そうではない人間もいるので、そうではない人にまで評価して欲しいのかどうかというところを、考えてみればいいのだということ。


あなたは、あなたが評価して欲しい人に、評価してもらおうと考えるほうがいい。

あなたの能力はそのままで変わらないのであり、もちろんこれから努力によってそこから変化していくが、評価というのはそういった努力が足りないというよりも、相手に渡している情報が足りないというふうに考えてみたほうが正しい。

評価するのがあなたである場合のことを、考えてみればわかるはず。

相手がどれだけ主張をしてきたところで、あなたが「何らかのことを知る」ということが起きない場合には、評価は変わらないと思わないだろうか?


人はそれぞれ見ている範囲が広いわけではないので、自分のことを知ってもらおうとするときには、まず相手のことを知るというのが、大切なことになる。

その努力を怠る者はいくら主張しようとも、評価を得ることはできない。

要領よく出世をしたり、人づき合いを上手にしたりすることができる者は、「ずるい」のではなく、「賢い」のである。

それは、立派な努力であって、姑息な手段ではない。


本当に立派なことをしたいのであれば、相手のことを考えて、自分の本当の能力を捧げられるための努力を、きちんとしようとしなければならない。

そうすると、自己評価というものが必ず上がるので、試してみて欲しいと思う。


メニューに戻る


「エゴについて」の論


エゴとは、自分の考えを正しいとして疑わない者の、「発案を受け入れるべき」とする考えである。

それは、「考えそのもの」と言える。

エゴとは、その考えの塊(かたまり)のことを言う。


要するに、その考えを変えればいいものを、「変えない」という考えのもとに動いている。

だから、「考え」は消えない。

エゴが消えないのである。


一方、柔軟な考えをもつ者は、考えを変える。

「より良い考え」へと、移動することができる。

要するに、「皆が幸せになる考え」を追求することが可能になる。


ところが、「考えを変えない」という塊をもっている者は、考えを変えない。

「自分の言うことが最も正しい」と考えるため、「より良い考え」という発想をもたない。
「より正しく・より素晴らしく」という発想は皆無で、「より自分の考えを貫くためのこと」しか考えない。

そのために発想し、「より人に言うことを聞かせること」を考える。


あなたが、どちらの発想をもつ者か、考えてみるといい。

より自分の考えを貫こうとして話をしようとする者は、

人が、自分に意見することを嫌う。
また、自分の言うことを聞いてもらえないと怒る。
そして、自分が言っていることが正しいと疑わない。


この3つのことをエゴと言っても過言ではない。

この考えそのものを、エゴと言う。


人は、自分の考えを変えるための「対話」をするべきであり、自分の考えをより良くするための案を出すべき。

世の人はそうして協力し合うべきであるため、エゴの塊をもつ者は、苦しみを経験するはず。

思い通りにならないということに、のたうち始め、必ず考えを変えるようなことは起こる。


だが、そこから抵抗しようとし、自らを守ろうとすると、「エゴを守る」ということになっていく。

「エゴを守る」ということは、「考えを変えない」ということ。

考えとは、変えるほどに楽しくなっていくものであるので、エゴをもつ者は、「楽しくない」という事実に苦しんでいく。


エゴをもつ者は、エゴを守ろうとして、楽しみを捨てていく。

エゴをもっていることが苦しみの原因と気づかないまま、エゴを手放せば損をすると勘違いしている。

本当に損なのは、そのエゴを手放さぬことなのに、その考えを変えてみようとしないことなのに、本当は変えたほうが楽なのに、皆が楽しく協力するよりもエゴを手放さないほうが得だと思っている。


そういう心あたりのある者は、こう思って欲しい。

あなたが一番正しい考えをしているならば、なぜ苦しいのかと。

それは、本当に正しいのかと。


正しいと思っているわけでもなく、エゴを手放せないと悩む者は、こう考えてみて欲しい。

エゴは、「考え」に過ぎない。

あなたの知識と情報を増やしてみることが、解決に繋がっていく。

人のことを知り、己のことを振り返るだけでいい。


エゴとは、「偏った考え」のことを指すのであるから、考えを広げるとか、知識を増やすことによって、考えを変えていけばいいだけのこと。

それができないと苦しんでいるのだとすれば、ばかげたことだとは思わないだろうか?


参考にして欲しいと思う。


メニューに戻る


「お金儲けについて」の論


もしも、あなたがお金を儲けようと思うのなら、こうすればいい。


お金を儲けようとしないで、人が大よろこびすることを考え、どうしてもお金をとらないといけない状況になるまで、無料にすること。

無料にする理由は、あなたが勉強する間、お金を支払うつもりでやるため。


「どうしてもお金をもらわないといけない状況」とは、人が多すぎて、有料にしないと困ってくる場合。

それがお金儲けの基本であり、それ以外の場合、たいてい人がいなくなってその商売は終わる。

なぜなら、たいして人によろこばれない商売を、うまいことおこなおうとする頭ばかりを働かせ、「人がよろこぶ」という大前提を忘れるからである。


あなたがお金を払うということを考えればわかるように、お金というのは、払いたくないものである。

だから、払いたいと思うその考えをつくり出したいのであれば、それは途方もない計画を立てるということになる。

お金を払いたいというように仕向けるというのは、実は途方もない計画であって、それは例えば、人気そのものや、有名な作品に対するプレミアのようなものをつくり出すことに等しい。

つまり、「お金があったらこれが欲しい」と思うものの一つになるという感覚は、あなたが万に一つそのようなブランドをつくり上げるに等しいものであって、気軽にお金を払うというものにはなり得ない。


まず生活費を支払い、必要なお金を計算して生きている人間が、あなたのサービスや商品を知った上において、「たくさんの人がこのサービスや商品を欲しているため、お金を払う必要をもっているのだ」という納得をもって、はじめてお金を支払おうとする。

それは、あなたが決めた金額に、その価値を見出した人々が、その後だいたいの値を決めてくれる。

お金を払いたくないというのは、その商品価値がないからというよりも、売り手の熱意がないという理由によるものが大きい。


自分がお金をつくり出すということは、商品やサービスを考え出すということであるけれども、商品やサービスというのは、「それをいかに便利に提供するか」という段階の案であって、ほとんどの場合は、自分のアイディアが勝負となる。

お金を儲けるというときには、自分がいかにアイディアを出すのかということが、勝負になるということ。

それは、質のいいアイディアではなく、ある程度の質をもった、大量の案である。


それを出せない人間は、何をやっても、商売に結びつけることができない。

ある人は、この案を100個思いつき、ある人は、この案を1000個思いつく。
どちらが、いい案を形にするのかというと、1000個思いついた者である。

なぜなら、1000個思いつく者は、999の案を捨てることができるため。

商売とかサービスというものは、次に次にと移り変わる市場や時代の流れに沿って、捨てられるものを多くもっている者が、勝つのである。


2000のアイディアをもつ者は、そのほとんどを捨てることができる。

金を持つ者とは、その金がなくなったときに、新たに多くの金をつくり出す方法を、いくつも知っている者である。


一つや二つのアイディアをもって「金が欲しい」と嘆く者よ、己の未熟さを知るがいい。

あなたが、一つか二つの案をもって大金持ちになる日はこない。

お金を自分のものにしたいなら、「お金を儲ける方法」を学ぶのではなく、人が大よろこびするアイディアを、大量に出すのがいい。


あなたがそうすることによって、お金が儲かる頃には、あなたにお礼を言う人が増えている。

そういうことをしようと思っていない者は、いつか廃れていくのだろう。


メニューに戻る


「時間の使い方について」の論


「時間を有効に使う」ということは、
「短時間で、いかにたくさんのことをこなすか」ということではなく、
「短期間に、どれだけ進めるのか」ということである。


短期間に、進める人になろうとして欲しい。

あなたの想像力を働かせ、上には上がいる・前には前がある・次には次がある・先には先があると知りなさい。

あなたが、ゆっくりだらだらとしているときには、そういうことがわかっていない。


赤ん坊が、いつまでもいつまでも赤ん坊のままで10年を過ごそうとしていたのだとすれば、「このままではいけない」とわかるようになるのだろうが、あなたの年齢でいろいろなことを考え、「このままでいいのかどうか」ということを知るためには、想像力を働かせるしかない。

あなたが、人生の全体を考え、このまま時間を有効に使うことができず、明日死んだとして、後悔しないのかどうかを考えてみるしかない。

井の中の蛙が大海を見ていない状態になっていないかどうか・天井の低い場所でこれがてっぺんだと思っていることがないかどうか・もっと上を目指したくはないのか・もっと頭を使いたくはないのか・もっと全体的に満足度を上げた自分になりたくはないのか、それを考えてごらんなさい。


そうした想像の中、あなたが馴れ合いの生活を離れようとするその心が、もっと上を目指す心となって、時間の有効な使い方を考える動機となる。

もしもあなたが未来に、その広い世界と楽しい生活を目の当たりにしたならば、そのときにはこう思うのだろう。

「もっと早く時間を有効に使っていればよかった」と。

そのときになってしかわからないこととして、あなたが想像力を働かせるか否かの話になるのである。


本当は、何もせずにだらだらと一日を過ごしているほうが、楽なのかもしれない。

本当は、いまのやり方を続けて、「苦労しているのだ」と文句を言っていたほうが楽なのかもしれない。

本当は、現在が一番いいのかもしれないし、無難な方向に行くのが一番いいのかもしれない。


だが、想像してごらんなさい。

あなたの知らなかった大海が、目の前に広がっている姿のことを。


もしもその瞬間が未来にあるのだとしたら、あなたはいま、何をするべきなのだろう。

何をおこなうことが、有効に時間を使うことになるのだと思う?


その作業とも言える行動が、あなたを未来に導くのだとすれば、何をするのかと聞いている。

その行動なくして、欲しい未来がそこに現れると思うのだろうか。


これは、そのように考えてみるのかどうかという問題に過ぎず、想像してみるのかどうかということに過ぎず、上を目指し前を向いて、歩くのかどうかという判断に過ぎない。

そういったことを、淡々と考えてみるだけでいいのだと思う。


余計なことを嘆いたり、どうせダメだと恐れていたりするのは、時間の無駄というものであろう。

あなたも、考えてみて欲しいと思う。


メニューに戻る


「競争について」の論


競争というのは、王道を走ろうとしても、なかなか勝てるものではない。

もちろん、オリンピックの1位2位を目指す気があるという場合には王道を走るしかないのだが、1億人の人間がいるとして王道を走ろうとするのでは、1億人に1人か2人しか「勝てる人」がいなくなるのはわかると思う。


競争というのは、1位2位以外の数字をとった人は、満足できないものなのだ。

それから、1位2位という数字は、毎回必ずとれるものではない。

だから、競争をするということは、イコール「満足できない」ということになる。
あなたが「満足する競争をしたい」ということは、そもそも叶わないことなのである。


人はそもそも、そうして腹立たしい嫉妬を繰り返すために競争をしている。

そこで1位2位をとったことのある者が、その栄光に憑りつかれるということが起こる。

そもそもそのように大変なことを目指して、ほぼ継続することのできない状況に恐れをもつことが、あなたの本当にしたいことではないと思うのであれば、こう考えてみて欲しい。


あなたがつくり上げた1番を、目指すこと。

それが、継続的な1番を目指す唯一の方法である。


ギネスブックというのがこういうことに当たるのだが、気づいているだろうか。

自分自身が1番になれると決めたものに対して、人が挑戦する。
本来はこれが正しい挑戦の仕方であり、自分の満足のために人は動くのである。


では、これを応用して何ができるのかと考えてみて欲しい。

あなたが、「これなら1番を目指せる」という手が、必ずあるはず。

オリンピックを目指すことができなくても、誰にも負けないことを伸ばしていくことは可能であるはず。


そもそもあなたが「こうしたい」と思うことについて、してみることから始めるしかないのに、それが王道ではないからといってあきらめるのは、ばかばかしい。

他にそれをしようとする人がいないほど、あなたが1番になれる可能性は高くなる。

なのに、それをばかばかしいとあなたが判断しているようでは、話にならない。


とにかく、あなたなりのギネスを目指すつもりでやってごらんなさい。

王道を走ろうとしたよりも、ずっと面白いことが起こり始める。

これまでにも、そのような傾向を見たことがあるのではないだろうか?


人がおこなっていることや、常識的に考えて「こうするべき」と判断できるようなことは、比較的おこないやすいと思えるのかもしれないが、それは逆である。

人がおこなっていることを始めようとする時点において、あなたはすでに1番ではない。

もちろん、その人に勝とうとし、1番になろうとするのは悪いことではないのだが、それは継続しがたい1番を目指すことになるのではないだろうか。


あなたが満足することを望むのであれば、継続できる1番になろうとしてみて欲しい。

あなたが1番になった頃には、それこそが王道になっているということにもなり得る。

「王道」と呼ばれる道もまた、そうして道をつくってきた人がいたというわけである。


つまり、そういったアイディアが勝負ということであって、人と同じ競技を競うことで満足を得られるのではないということ。

競争というのは、アイディアや工夫の勝負であり、技を競うのであって、すべてはオリジナルから始まるのである。


「いかに人と違うことをするのか」と、考えてみて欲しい。

あなたが「人とは違う」と思ったことは、いずれ人と同じになる可能性をもっている。

それでもあなたは、人と違うことをおこない続けるのである。


そうした者が、その世界の1番になる。

参考にして欲しいと思う。


メニューに戻る


「努力について」の論


努力をするのは、好きだろうか?

それとも、嫌いだろうか?

あなたは、どういうときに意識をして努力をしようとするのだろう?


努力というのは、嫌なことに対して一生懸命におこなうイメージがあるのだと思う。

だが実際、嫌なことを努力しても、嫌になるということが多い。

嫌なことを努力し、嫌ではなくなるということはあまり起こらない。

嫌なことは、嫌なことである。


だから、努力というのは、「嫌ではないこと」に対しておこなわなければならない。

努力というのは、あなたが興味あることや、できるようになったら楽しそうなことに対しておこなうべき。

嫌なことに対して努力するというのは、「嫌々おこなう」というだけのことであり、自分のやりたいことに向かっていないことを、誰かの意見に沿っておこなっているのだと思う。

努力をするということは、「そこに力を注いで、自分が成し得ていなかったことを成し得るようにもっていく」ということなのだから、何もわざわざあなたが嫌なことをする必要はない。

嫌なのかどうかはやってみなければわからないものだが、やってみて嫌だと感じることは、やはり続かないのだと思う。


努力というのは、楽しいものである。

なぜなら、あなたのできなかったことが、できるようになる感覚を味わうことが可能になるため。

そのための練習や訓練や勉強を重ねるということをおこなう時点において、あなたは、充足感に満たされることができる。

あなたの目標を確認し、前を向いて歩いている実感を感じることになる。


そういった感覚が努力を重ねるに相応しい環境となって、人は努力を重ねることができる。

つまり、まるで自分をいじめているかのような努力や、何のためにおこなうのかわからないような努力を重ねるのが必要と考えている者は、努力をする目標が見えていないのである。


あなたの目標は、充足感であったり、よろこびであったり、成し得ることへの実感であったりするべき。

単に自分を苦しめるような考えをもっている者は、そういうことを目標にせず、おそらくとんでもない漠然とした夢をもっている。

なんとなく、とてつもなく良くなるような、そんな感覚を目標にしているのである。


努力をするというのは、きちんと現実的に成し得るための目標をもつということであり、努力を嫌う者は、「なんとなく漠然とした夢」をもっている。

「なんとなく漠然とした夢」をもつ者は、何一つ具体的な夢を叶えようとしていないことに気づいていない。

自分のもつ夢が誰よりも大きいと勘違いし、漠然とした夢を抱えながら、何一つ具体的なことをおこなうことができないのである。


大きな夢というのは、小さな行動を重ねなければ、成し得ることができない。

その小さな行動を「努力」と呼ぶのであり、自分の行動を重視していない夢は、幻に過ぎない。


自分の行動を意識し始めると、「これこそが自分のやりたかったことである」と理解することができる。

努力とは、そうして楽しくおこなう過程のことを言うのである。


メニューに戻る


「心配事について」の論


「心配事がある」という人には、こう言える。

心配事を解決するには、時間が必要。
あなたがその心配事にかかりきりの状態になっても、その心配事は消えない。


例えば、親のこと・子供のこと・病気のこと・恋愛のこと・お金のこと・未来のこと・仕事のこと・夢のことなど、いろいろ心配なことはあるだろう。

いつの日か、解決することではあるけれど、いま心配なことがあるのなら、こういうことが言える。

心配しなくても、起こることは同じ。
あなたが、心配してもしなくても、何かが起こったり起こらなかったりするようになるのではない。


だから、何かをしなければならないとか、何かを変化させねばならないとか、そういう考えをもっていれば、心配していることが起こらなくなると勘違いしないこと。

あなたが想像するよりも多くのことが起こるものだし、あなたが特定のことを起こそうとしても、無理な話なのである。


自分の想像したとおりの世の中をつくることができると思うようなことを、やめようとすること。

つまり、「心配をする」ということは、「想像をする」ということであり、その想像があなたにとって悪いことであるから、その想像が気になるのだと思う。

だが、例えばあなたが想像したことを現実に起こそうとしても起こせないのであるのに、まるで起こってしまうかのように考えなくともいいということである。


心配をする時間とは、そのように無駄な時間だと言える。

それでも無駄な想像をやめられないようなのであれば、自分の心配事を紙に書き、本当にそのとおりになるのかを試してみればいい。

それを読み返したときに、「私の予想は当たっていた」と確信することにし、今後は心配することにしようと、決めればいいと思う。


とにかく心配事を紙に書き、それが当たってから心配するようにして、あとは忘れて欲しいのだ。

それが当たらない限り、あなたが心配することは紙に書いて忘れるようにすれば、心配事を対処する方法がそれであるとわかる。

紙に書くことで、ずっと覚えておかなくともいいことになるし、過去に当たった確率がわかるようになる。


あなたの心配が当たる確率がすごく高いと感じたら、その能力を役立てようとすればいい。

だが、その想像がどの程度の確率かということを知れば、あなたは心配するのをやめるようになると思う。

それを、正しく理解するのがいい。


心配は、想像に等しい。

だから、「想像をする」ということによって、何かが変わるということはない。

心配をするということは、あなたが今後の行く末を勝手に一つか二つの出来事に絞り、まるで実際に起こるかのように考えているだけのことである。


だが、それは非常に起こる確率が低い。

あなたの想像よりも、現実のほうが予想のつかぬ状態になるはずだし、あなたが考えている以上のいいことも悪いことも、本当は起こり得る。

だから、想像をするということを続けるのには、あまり意味がない。


想像をすることに意味があるとすれば、そのことが必ず起こる場合のみ。

必ず起こるのであれば、あらゆることを考えて準備をする必要をもっている。

だが、起こらないのが大半ならば、もっと「必ず起こるとわかること」について、考えるほうが先決ということ。


必ず起こることであるのか、そうでないのかを見極めて、本当に起こっていく物事について対応することが大切。

すべての心配事に対処していかねばならぬとすれば、千通りものことに備えねばならない。
だが、「起こるかどうかわからないこと」は、まだ考えるに値しないことである。


心配事は、心配事。

あなたがそのように、現実と想像の区別をつけようとすること。


あなたの想像は、あまりあてにならない。

だから、まるで未来を知っているかのように考えて、心配しなくてもいいのである。


メニューに戻る


「優劣について」の論


優劣というのは、能力や立場として優れているか劣っているかというよりも、「優れた思考」をしているのかどうかだと思う。


優れている人は、劣っているふりをすることができる。

だが、劣っている人は、優れたふりをすることはできない。


「優れている」ということは、自分のおこないが、総合的に判断できるということ。

例えば、現在の状況を見て、曖昧な回答をするべきかそうでないかを判断できる人や、自分が考えていることを言うべきなのか否かをわかっている人。

それから、肝心なときに力を出せる人や、普段のおこないがいいことや悪いことを生み出しているということを知っている人。

分別があって、答えを出すことの重要性を知っている人や、できるだけ穏便に物事を済ませようと心得ている人などのことを言う。


人が、人よりも優れているという判断をするのは、上記のようなことを垣間見たときであって、役職や立場のことを考えるときではない。

自分という者の感情に振り回されているときには、人から「劣っている」というレッテルを貼られる。

要するに、いつも自分の狭い思考と感情に振り回される人にとっては、そうではない人が「優」ということになるのである。


「優」という立場にいる者は、人の話を静かに聞くことができる。

「優」という立場にある者は、人の話をさえぎらずに聞くことができる。

例えばそういったことが、あなたが優れているのかどうかを判断する材料になる。


なぜそうなるのかというと、「優」という立場にある者は、性格的に穏便になるものであるため。

なぜそうなるのかというと、あまりにも人との判断の差が激しく、「優」という立場から「劣」を見るとき、反論する気も起こらないため。


「優」の立場にいる者とは、人との判断がまるで違うため、話し合いが決裂することさえ起こらない。

例えば、「劣」の立場にいる者が、自分の思いどおりに事を運ぼうとして声を荒げるのに対し、「優」の立場にある者は、「劣」の立場を察して優しい言葉をかけようとする。

つまりこのように、優劣に差がついた者たちが話し合うと丸くおさまるのに、そうでない者同士が話し合うと喧嘩になるというわけである。


あなたが優れているのかどうかということは、このように考えてみると明らかになると思う。

優れている者は、優れていなかった経験をもつため、優れていなかった頃の自分を、あらゆるところに見ることができる。

そうした経験を活かし、「優れている」という立場になった者は、優れていない者が、何を求めているのかを知っている。

それらを含めて物事を判断できるという、その姿勢が「優れている」と判断できるものであって、何らかの持ち物が増えることや、肩書きが増えるようなことが「優れている」のではない。


優れている者は、絶対的に余裕をもって、人と話をすることができる。

そういうことを目指すのであれば、あなたも、優れた人になることができるだろう。


メニューに戻る





この続きは・・・
メールマガジン万事良好!もう「いい気分」でいることを忘れない! で!
次回更新まで、しばらくお待ちください。


M E N U




どれを、どのように申込むのがいいのでしょうか?
A.まずは、メールと電話による対話か、お試しプチ相談か、どちらかを選択して、対話を開始してください。
メールによる対話をされた方には、電話による対話をいつでもご利用いただくことができます。

うまく対話ができるのかどうか、不安なのですが…?
A.対話の利点を最大限に活用することができるように「内なる声」が説明をしている、テキストをご用意しております。
ご事情により、ご自宅に送付できない方(海外在住の方・ご家族や同居人に知られたくない方など)には、PDFデータ(B5判)で対応しています。


information資料情報


対話の心得
→詳細はこちら

メールによる対話でハイヤーセルフのメッセージを申込めば、自分のハイヤーセルフと話ができるのですか?
A.いいえ。ハイヤーセルフはあなたとベラベラ話をすることができる存在ではありません。
メッセージを希望された方には、対話の前にメール送信させていただきます。その後はメッセージの真意や意図を理解するために、「内なる声」と呼ぶスピリチュアルな存在と対話をしてください。

ハイヤーセルフについての詳細は、「内なる声」が語った内容をまとめた著書をご参照ください。


information書籍情報


セルフより愛を込めて
「自分」を理解したいあなたへ
→詳細はこちら

裏話特集ページはこちら!

「内なる声」というのは、どういった存在なのですか?
A.人々のハイヤーセルフに繋がり、多くを見通して教えを説く能力をもっている、スピリチュアルな存在です。詳細は、「内なる声」とのエピソードでご説明しています。

下記の「内なる声」によるコラムや書籍なども、ご参照ください。


「内なる声」によるコラム
現在メールマガジンで連載中!
「あなたのハイヤーセルフ」論
「あなたの悩みについて」の論
「恋愛について」の論
「結婚について」の論
「嫉妬心について」の論
「天職について」の論
「友達について」の論
「いじめについて」の論
「転機について」の論
「愛について」の論
「病気について」の論
「評価について」の論
「エゴについて」の論
「お金儲けについて」の論
「時間の使い方について」の論
「競争について」の論
「努力について」の論
「心配事について」の論
「優劣について」の論



information書籍情報

管理人の著書
Kindle本(電子書籍)



informationシステム情報


  
個人サポート・システムは、あなたの幸せを、あなた自身で得ることを目的として、ご活用いただくためのシステムです。

システムをご利用の際は、ご利用上の注意点をご確認の上、ルールとマナーを守ってください。


参考リンク
はじめにお読みください
管理人について
「内なる声」よりのメッセージ

「内なる声」との対話を掲載中の
管理人ブログはこちら
「内なる声」との対話
「内なる声」からの回答